水鏡に映った男の顔を指差しながら、老婆が言った。
「これがそなたの運命じゃ」
傲慢で、情熱的な目をした男の顔が浮かんでいた。
「受け入れるがよい。さすれば、コリファイは救われる。」
森に住む老婆は未来を見通す目を持つと言われている
コリファイの第三王子は頷いた。
「じゃが、並大抵のつらさではない。そなたがもっているものすべてを、地位も、尊厳も、父母への愛情も、すべて失うことになる。とりわけ、つらいのは、誇りを失くすことであろうな。」
老婆は少しの間目を閉じた。王子の未来がそのまぶたの裏に映っているのであろうか。
「一つだけ選択肢がある。耐えられなくなったときには……」
老婆は、自分が胸元にしていた、皮の首飾りをはずすと、王子の首にかけた。そこには藍色の玉がはまっていた。
「これを呑み込むがいい。安らかな眠りが訪れるであろうよ。」
王子は無意識のうちに、その玉に指で触れた。老婆が言う安らかな眠りとは、死を意味するのだろうか。自分が死を望むことがあるとは思えなかった。恐れるものなど何もないと信じていた。
「もしも、そなたに想い人がいるのなら、ここを発つ前に、その想いを果たしてゆくがよい。それはかなわぬ想いとなるであろうよ。」
王子の脳裏に、幼馴染の姫の顔が浮かぶ。おそらくこのまま、この国にとどまっていたなら、その姫を娶って、兄たちとともども国の政にたずさわることになったであろう。可愛らしい姫であったが、自覚するほどの恋心を抱いているわけではない。それでも、もし誰かをというのなら、彼女のほかには考えられなかった。
老婆は、水鏡に真っ白な指を差し入れると、再びそれを覗き込んだ。
波紋が広がった水面に何かが、見えたような気がしたが、王子には判別できなかった。
「見ようとせぬ運命は見えぬものよ」
ほっほっと老婆は笑った。
「恐れるならやめるがよい」
王子は首を振った。そんなことができるはずがなかった。コリファイを支配する国マルキアへの貢物を届けるのに自分が選ばれたのは、王のあとを継ぐ第一王子を危険にさらすわけにはいかず、体の弱い第二王子にはつとまりそうもなかったからである。
自分が行かなければ、誰かが代わりになるか、この国が滅ぼされるかである。
そう心を決めると、再び水鏡を覗き込んだ。波紋はすでにおさまっていて、最初に見た男、マルキアの王の顔が映っているばかりであった。傲慢そうではあるが美しい男であった。この男を受け入れるという意味を王子は理解しているつもりだった。
「そなたが、受け入れる運命を選ぶまでは、そなたの名前を告げてはならぬ。」
「名前を?」
「そなたの真名じゃ」
王子は、コウと呼ばれていたが、それはまことの名ではなかった。
生れ落ちたときに、父王からつけられた名はめったに口にしてはならぬと言われていた。
「けれども、私が運命を受け入れなければ、コリファイは救えぬのでしょう?」
「マルキアに向かったときから、そなたは逃れられぬ運命に巻き込まれる。そなたの真名がそなたのとりでとなろう。望んで受け入れるか、望まずに受け入れるかの違いだけじゃ。どちらを選ぶかの知恵はそなたの中にあろうよ。」
謎解きのように老婆は言って、また微笑んだ。その意味が完全には理解できないながらも、王子は頷いた。
そのときになれば理解できるに違いない。
「今宵誰のもとで過ごす?」
老婆が聞く。
再び浮かんだ幼馴染の姫の面影を払いのけて、若く美しい王子は、目の前のしわくちゃな老婆を指差した。
「あなたと」
老婆はしわくちゃな口元をほころばせて愉快そうに笑った。
それから、手を伸ばして、王子の頬に触れた。
その指先は真っ白で、細く、しわ一つなかった。
顔を上げると同時に、しわくちゃだった顔が若い女の顔になる。銀色の髪が流れて小さく整った美貌を縁取る。女は妖艶に微笑んだ。
森の老婆は、年齢も性別も持たぬ妖魔であった。
「利口な王子じゃ。わらわを選んだ褒美に教えてやろう。その誇りを失いたくなくば、口を開かぬこと。口がきけぬふりをして、黙ったままでいるがよい。誇りも失わず、コリファイを救うことが出来る。口を開いたが最後、そなたは堕ちる。」
美しくも冷たい顔で、森に住む妖魔は、王子を引き寄せた。
その夜、王子は初めて女人と交わり、妖魔は王子を旅立たせることを惜しいと思った。王子を待つ運命はそれほど過酷なものであったから。
けれどもコリファイの第三王子は、貧窮にあえぐ国を救うために、行かねばならなかった。
******
「飽きた」
擦り寄ってくる半裸の女を押しのけながら、マルキアの若き国王は立ち上がった。
別の女が、ワインのグラスを運んでくる。
テーブルには、さまざまな果物や、切り分けられた肉などが山盛りになっている。
砂漠に囲まれたこの国は、強大な軍事力を盾に、周囲の国々を支配してきた。
あらゆる贅沢な品々はそれらの国からの貢物である。
一番よいものをと望まれた国々は、自国を守るために、武器や食料を貢がねばならなかった。なかでもマルキアが望んだのは、人であった。武術に優れたもの、頭脳明晰なもの、そして、美しい者たちが望まれて、マルキアへと向かった。
一番よいカードを与えることで、常に貧しさから逃れられないカードゲームにも似て、周囲の国々は疲弊し、マルキアに対抗する力を失っていったのである。
その、マルキアの王位をまだ年若い王が継いだ。
王国の富と権力を当然のこととして受け継いだ王には手に入らないものはなかった。
昼といわず、夜といわず、享楽の限りをつくし、あらゆる贅沢を味わいつくした。
国王には、狡猾で腹黒い宰相がついていた。
享楽という檻の中に、若く何も知らない王を閉じ込めて、権力を欲しいままにしていた。
何も知らぬままにしておくのは難しいことではなかった。
貢物を運んでくる小国の使者が、宰相のいない所で国王と謁見することはなく、直訴しようとする者たちは、国王に危害を加えようとしたとして、拷問の末に葬られた。
そうして無知なままの王は、何の疑念ももたず、何も知ろうとはしなかった。無知ゆえの愚かさで、与えられた快楽に溺れ、どんな望みもかなえてくれる宰相を信じた。
宰相は、国王の欲しがるものを与え、それを享楽することこそが、国民と従属する国々の望みであるかのように思い込ませた。
少なくとも、マルキアは栄えていた。
人民が餓えることはなかった。
*****
コリファイから、第三王子が使者として訪れ、国王に謁見したときも、国王の傍らには、宰相が控えていた。
宰相はこの第三王子の噂を耳にしたことがあったが、実際顔を見るのは初めてである。
コリファイを訪れた詩人が、砂漠の薔薇と例えたほどの美貌の持ち主であった。
一行がマルキアに到着したとき、物見高い民衆の間からは驚嘆のざわめきが起こった。
先頭でラクダにのって、真っ直ぐ正面に向けた目を、誰の上にも落とさず、王子は秀麗な顔を上げて、遥か先を見ていた。その麗しい眼差しを一時でも自分のものにできたらと、女たちは思い、その滑らかな肌に触れたいと男たちは望んだ。
人々のざわめきとため息の中、コリファイの一行は、王宮に到着したのである。
宰相は、一目王子を見るなり、欲しいと思った。
どんな高価なコリファイの貢物のよりも、王子こそが価値のある貢物であった。
マルキアが頭脳と体力の秀でた若者だけでなく、とりわけ美しい者たちを差し出すことを求めるのは、この宰相の趣味に他ならなかったのである。差し出された、美しいものたちのうちの何人かは、宰相の慰み者になり、牢に囚われたまま一生を終えることすらあった。
宰相のまわりには、趣味を同じくする側近や兵士が集まり、宰相を護り、彼の悪事を隠した。
欲しい。
ごくりとつばを飲み込んだ宰相は、コリファイの王子から目を離すことができなかった。
王子の衣類を剥いで、その真っ白な肉体を組み敷くことを想像すると、じわりと体の奥に熱がともった。これほど欲しいと思う生贄にあったのは初めてかもしれなかった。
誰にも与することがない、あの傲慢な目がいい。苛まれ、辱められたとき、あの目がどう変わるのか見てみたい。欲望と快楽の狭間で、あの瞳が潤むところを見てみたい。
のどがからからに渇くのを覚えながら、宰相は、王子を舐めるように見つめていた。
王子は、国王の前で、古くから伝わる舞を披露した。
身に着けているのは王族とは思えぬような、真っ白な荒い生地の長めのシャツのような衣装である。第三王子のために用立てられた豪奢な衣装を王子は身に纏おうとはしなかった。それ一つで、どれほどの国民が飢えをしのげるか知っていた。
真っ直ぐに顔を上げ国王を見た王子は、滑らかな喉もとをさらしながら、天井を見上げた。
美しく彩色された天井の輝きも失せたかと思える一瞬であった。
整えられた指先が、妖しく練り、ゆっくりと王子の顔が、再び正面を向いた。
王子は、華奢ではあるが、綺麗についた筋肉を晒すようにシャツをはだけて、踊った。
優雅にして、力強い動きに、盛り上がった筋肉が滑らかにうごめいた。
汗のしぶきが肌の上をすべり、宙に舞った。それすらも、真珠の珠のような輝きを放った。
髪を払うように首を振った瞬間、麗しい顔に、苦悶に似た、表情が浮かんだ。王子が踊ったのは、豊穣を祈る舞であったが、それにはほど遠いコリファイの現状を訴えるように、王子の踊りは激しさと苦悩を秘めたものになった。
ひどく艶かしい表情に、人々は息をのんで王子を見守った。
次の瞬間、王子の目が国王をとらえた。
王は、目をそらすことも出来ず、扇情的なその瞳にとらえられた。
恋に落ちた瞬間であった。
王子は微かに微笑んだ。
それは虚空に投げかけられた微笑であったが、何ひとつ欲しがることさえなく、手に入れてきた国王は自分に向けられたものだと思った。
王子は踊り続ける。
優雅な舞が時として激しく、情熱的に、空を切り裂く指先は、鋭い切っ先を持つ。
自らの肉体を抱きしめ、振りほどく。存在そのものを明け渡すように肉体を開いた。エクスタシーに似たきわまりに、感じている自分を余すところなくさらけだした。
謁見の間は、熱気に満ちていた。
居合わせた人々の目は王子の上から一時も離れはしなかった。
その筋肉の一つ一つを辿り、滑らかな肌にふれ、抱きしめ、わずかな薄絹を剥いで、組み敷くことを夢見たのは、宰相や王ばかりではなかった。
煽られた熱気が王子に押し寄せても、王子は踊り続けた。
涼しげな顔を、情熱を内包させた肉体が裏切った。
肩先から、シャツが滑り落ち、とがった肩と、綺麗な鎖骨がのぞいた。その淡いくぼみですら、隠微な秘密を内包しているようであった。
人々の目はますます熱っぽく王子をとらえた。
その視線の間を鮮やかに縫うように、王子は軽々と跳んだ。
自らの汗のせいで滑りやすくなった床に足を踏ん張り、その美しい筋肉の緊張を見せ付けた。
汗にぬれた秀麗な顔に、妖艶な表情が浮かぶ、苦悶の表情が浮かぶ、微かに開いた口元から、甘い息が漏れる。その唇をむさぼりたいと誰もが思った。
そうして、熱情に突き動かされた若い国王は思うとおりにした。