Chaos Area 1-1 1-2

砂混じりの風が、鋭い音を立てて、かさついた頬を掠めた。
唯一の足場ともいうべき岩の上に腹ばいになって、波佐間祐樹は銃をかまえていた。
かすむ視界の果てに小さく見える車までの距離は約30メートル。
通常ではあたるはずのない距離を隔てた的にぴたりと照準を合わせて、祐樹は時計をちらりと見た。
指定された時間は午後4時。なぜ、その時間なのか、何のために、あの車を撃たなくてはならないのかは聞かされてはいなかった。いや、訊こうとも思わなかった。
知らなくても、任務を果たすのに差し障りはない。むしろやりやすい。
 
時計の針が、動いた。祐樹は、ゆっくりと引き金に指を掛けた。
 
と、そのとき、目の前が暗くなった。
顔を上げると、女が立っていた。
「まったく! 携帯くらい持ってて欲しいわね。」
「忘れた」
祐樹が短く答える。
「あたしの時給は、あんたの分からひいてもらうから」
「わかった。」
またも短い答えが返ってきた。
「中止よ。」
奇妙に明るく女は言った。
「交渉成立らしいわね」
その意味はわからなかったが、祐樹は自分の役目が終わったらしいことを確信して体を起こした。ずっと同じ姿勢をしていたためにこわばった体を伸ばす。
「どっからきたんだ? あんた?」
自分よりどう見ても年上の女にため口をきいた。
「上」
けれども女は気を悪くした風でもなく、自分の指を上に向けた。
「春英のヘリよ」
その答えに軽く顔をしかめながらも、祐樹は手早く銃を片付けていた。
「で、ヘリは?」
「おあいにくさまね。おりられなかったの。私たちは、これから二日間は砂漠を歩くの。」
祐樹は深いため息をついて荷物を背負った。そうとわかれば、ここに長居する必要はない。
「春英のほうがよかった?」
当たり前だろ、と答えたいのをこらえて、祐樹は女に背を向けた。
 
 
女、瀬名秋蘭は、祐樹の想い人、春英のオンナで、とんでもない美人だった。
 
 
******
歩ける時間は限られていた。
陽が落ちれば、暗くなるだけでなく、気温も急激に下がる。どこかで野営するしかない。
祐樹はかなりの速度で歩いていたが、足をとられる砂の上を、秋蘭も、まったく遅れることなく付いてきていた。
普通の女なら必ず発する「待って」の声もない。
鍛え抜けれたボディと、切れる頭と、美貌と、金のあるイイオトコを持っていた。
最後の一つはもちろん春英のことである。
 
 
こうしている今、春英がどうしているのか、聞きたかったが、祐樹は聞けなかった。
もう一ヶ月以上も会っていない。
かつて、テロリストの息子として捕らえられ、死刑になるしかなかった祐樹を、引き取ってくれたのは春英だった。そのころからずっと慕い続けた男には、仕事仲間兼、セフレがいた。祐樹のことを恋愛対象としてみてはくれなかった。
「好きだ」
と、何度言ってもはぐらかされ続けてきた。
 
 
「この辺でビバークするわよ」
秋蘭の声に、祐樹は頷いた。彼女の判断に間違いがあったためしはない。
二人は、砂に埋もれてはいるが強固な岩を利用してテントを張った。容易な作業ではなく、ようやくなかにもぐりこんだときにはくたくたになっていた。
それでも、凍るような砂漠の夜をすごすには必要なことだった。
「ほら」
秋蘭がスープを温めて、祐樹によこした。軽く頭を下げながらそれを受け取る。
乾燥肉を齧りながら、スープを啜ると、体の芯が温まった。
食事以外何もすることがあるわけでもなく、食器を片付けると、秋蘭がシュラフを取り出した。二人寝用のそれに、抱きあうようにもぐりこむと、記憶のある香がにおった。
秋蘭は笑った。
「春英の夢でも見て眠んなさい」
豊かな胸に抱きこまれるようにして、祐樹は目をつぶった。
春英のオンナは、祐樹の気持ちを知っていた。さっさと押し倒してしまえと言われたのも、一度や二度ではない。性格もとんでもなくいい女であった。
 
二人寝のシュラフを用意したのは、単に暖めあうためであったが、こんな美女の胸に抱かれて眠れるわけがなかった。ぴったりと密着した体は祐樹の雄をそそった。その上、体温が上がった体からは春英の香が立ち上っていた。
できるだけ体を遠ざけながら、長い夜を、祐樹はただじっと耐えていた。
 
 
 
******
「傷つくなあ」
夜明け前にシュラフをたたみながら、秋蘭がため息をついた。
「こんな美人と一緒にシュラフに入っていて、何にもしないんだもの」
何かしたら、後が怖いだろうがと、思いながらも、祐樹はあえて言わない。
だまって、出発の準備を整えた。秋蘭に反論しても勝てないことがわかっていた。
今夜には春英に会える。
 
 
日が高くなって気温が上がりきる前に、二人はかなりの距離を歩いた。
「少し休もう」
じりじりと肌を焼く日差しが耐えがたくなったころ、二人は、日差しを避けるように厚地の布をかぶってじっと休息した。めまいがするほどの日差しが、いやおうなしに体力を奪う。
厚い帆布をかぶって水分を補給しながら、秋蘭と祐樹はじっとしていた。
少し日がかげれば、また歩き出せるだろう。
それまでは体力を温存しておくに限る。
疲労したからだが求めるままに、祐樹は目を閉じた。
 
 
******
夕方から再び歩き出して、あたりが闇に包まれたころ二人は、ヘリにたどり着いた。
冷え切った野外で春英は二人を待っていた。
秋蘭がにっこり笑うと、自然に近づいていって、二人は抱き合うと、かすかに唇を触れ合わせた。なじんだ自然な仕草であった。
 
「ほら、ハグでもキスでもしなさいよ」
秋蘭は、祐樹の体を押し出した。
けれどもそんなことができるはずはない。祐樹はただ春英の前に立ち尽くした。
「無駄足を踏ませてしまいましたね」
丁重な言葉で、結局何もする必要がなくなった祐樹の任務をねぎらった。春英はいつも大切なあずかりもののように、祐樹をあつかう。決して他人行儀なわけではない。だが、適度な距離からは、熱っぽさを感じることができない。
「乗りましょう」
意外なことに、それは春英のヘリではなかった。祐樹の疑問を察したように、春英がかすかに笑った。
「夜、操縦するのは骨が折れるのでね。先方がパイロットつきで用意してくれました。」
その言葉のとおり、まだ若い男が、操縦席に座っている。
三人はヘリの後部に乗り込んだ。
 
轟音とともに、ヘリが浮かび上がった。
 
「砂漠の月は綺麗だったわよ」
不意に秋蘭が口を開いた。月なんか見ただろうかと祐樹は記憶をたどった。
「月の砂漠って歌を教えてもらったんですが。あれはいったいどこの砂漠なんですか?」
祐樹も話に参加した。意味のない会話である。
「サハラか、タクラマカン砂漠かってところじゃないでしょうか」
話しながら、春英が小さな包みを取り出した。秋蘭がすばやくそれを身に着けた。
コンパクトなパラシュートである。
祐樹も見よう見真似で同じように装着した。
 
 
ものの数分もしないうちに、ヘリががくんと揺れた。急降下しはじめたらしい。
 
 
いくぞ、とも言わずに春英がヘリのドアを開いた。最初に、秋蘭を出す。それに続いて祐樹が、暗い虚空へと飛び出した。眼下に広がるのは、夜の闇よりも暗い森である。
すぐ横に、春英の体が浮いた。
パラシュートを開くタイミングを、手で合図されて、祐樹は紐を引いた。
 
 
二人が、地面に降り立って、パラシュートをはずし終わるころには、先に下りた秋蘭が、逃げ出したヘリのパイロットを引きずってきた。
「話を聞かせてもらおうか。あのまま、俺たちは事故死するはずだったのか? 誰の命令だ。」
春英がパイロットに訊いた。どう見ても軍人らしいその男は口を噤んだ。
その様子に、祐樹がボールペンを取り出した。古典的な拷問を試す気らしい。
「傷を残すのはまずい」
春英が止めた。
 
 
 
「私がやる。二人とも向こうに行ってて。」
秋蘭が買ってでたのに任せて、二人はその場を離れた。
 

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