(1)
「行ってくる」
その日、出かけていくときの高野はいつもと変わりなかった。むろん、知り合いの葬式に行くのだから、沈んだ様子ではあったが、予測できない死ではなかったぶん、割り切ったような目をしていた。
アイロンをあてた真っ白なシャツに、黒いネクタイをした高野をうっとりと見つめながら眞希は、葬式に行こうとしている高野にときめいた自分の不謹慎さを悟られないように、まじめな顔を取り繕っていた。
そんな朝だったからキスもせず、出掛けにちょっとだけ、二の腕に触れただけだった。
なぜ、一緒に行かなかったのだろう。
死んだ男が、自分をレイプさせて高野と別れさせようとした相手だったとしても。
なぜ高野を一人で行かせてしまったのだろう。その日の朝のことを思い出すたびに眞希は後悔した。
浜口栄治は自身が予告したように、苦しんでではなく、効き目の強い痛み止めの力を借りて、朦朧としたまま、眠るように逝ってしまった。それを勇次から伝えられたとき、眞希は何も感じなかった。怒りや悲しみや恨みを感じるほど近しい存在ではなかったし、あまりにも、急なことであったから。
勇次の父親だということ以上に、眞希の気持ちを動かすものはなかった。
眞希と電話を代わった高野が、静かな声で勇次に悔やみの言葉を伝えるのを、じっとそばで聞きながら、高野にとって、婚約者の父親であった栄治はどんな存在だったのか、いつか聞いてみようと思っていた。
高野は葬儀に参列することを望んだが、眞希を連れて行く気はないようだった。何よりやくざの葬式である。自身も、正式に参列するというより、影から見守るつもりのようだった。栄治を弔うというより、勇次の様子が気がかりなのかもしれないと、眞希は思った。眞希自身もそうであったから。
焼き場まではついていかない。自宅での葬儀が終わったら、すぐに帰ってくるからと、どこか不安そうな目をして、腕に触れた眞希にそう言って出かけていった。
けれども、高野は帰っては来なかった。昼を過ぎ、夕方になったころ、眞希は携帯を握り締めていた。勇次に連絡をとろうかどうしようかと、迷っていたのだ。
葬儀の最中ならば、迷惑をかけるだろうし、電源を切ってある可能性もあった。
だが、まさに、電話をかけようとしたそのとき、突然、眞希の手の中で携帯が震えた。
「はい?」
「……」
「勇次?」
「そや、ごめんな、眞希……」
勇次の声は泣き出しそうに擦れていた。そんな勇次の声を聞いたことがなかった。心臓の鼓動が跳ね上がる。勇次の言葉は、胸には入っていかなかった。伝えられた言葉が理解できないまま、何度もその表面をなぞる。
「なに? 何を言って……?」
体の力が抜けていく。
「高野が警察に連れて行かれた。」
「なんで?」
意味がわからずに、眞希は機械的に聞き返していた。
要領を得ない勇次の話を理解しようと何度も聞き返しているうちに、結城に代わった。
そこで初めて事情がわかってきた。
浜口栄治の葬儀の場で、勇次が襲われたのである。ナイフを持った男が、勇次に向かって飛び掛った。結城が気づいたために勇次は無事だったが、男を手引きしたらしい幹部が何人か加わって、乱闘になったのである。
「すまんかった。高野が止めに入ったのにも、気がつかんくて」
銃声が鳴り、気づくと、銃を握り締めた高野の前に、男が一人倒れていたという。
結局、付近の住民の通報で、警察が来たときには、仕掛けた男と、何人かの幹部は姿を消してしまっていた。
高野に撃たれたのも、浜口組の幹部の一人であった。
勇次と結城が、正当防衛を主張したにも関わらず、高野はほとんど口を開かず、警察の質問にも、自分が撃ったと答えただけだったのだという。
「眞希!」
突然、玄関が開いて、勇次が飛び込んできた。
携帯で話しながら、こちらに向かっていたらしい。
「車に乗れや。早く」
事情はあとから説明するからと、眞希は、携帯と外出するとき持って出るバッグ一つで連れ出された。
「うちの幹部も逃げとるし、相楽んとこと繋がってるらしいから、お前も安全とは限らんのや。」
車のなかで勇次が説明するが、眞希にはなかなか理解できない。
どうやら、最近関東に進出してきているやくざが、浜口組の跡目争いに一枚噛んでいるらしい。
「俺みたいなガキは気に入らないってことや。けど、こんなに早く手え出してくるとは思わんかった。」
「高野が、連れて行かれるときに、あんたのことを頼むって言うたんや。万が一のことを考えて、連れに来たんやけど、俺たちはこれから、警察に出頭せなあかんのや。」
「俺も行きます」
「けど……」
「お願いです。」
必死だった。高野の様子を知りたい。もしかしたら、もしも、逮捕されるようなことになったら、当分会えないかもしれない。
「しゃあないな。高野と会えるかどうかはわからへんけど」
ようやく結城が頷いた。
(2)
******
三人を迎えたのは、初老の刑事だった。眞希を保護するために、一度現場を離れることを許してもらったらしく、結城がぺこりと頭を下げた。
「詳しく事情を話してもらおうか。」
穏やかな口調でそう告げた。
「高野さんに会えませんか?」
眞希は、その刑事に頼んだ。目を細めるようにして、眞希の顔をじっと見ていた刑事が、頷いた。初老の刑事は、勇次と結城の事情聴取をもう一人の若い刑事に任せて、眞希を連れて廊下へとでた。
「ありがとうございます。」
事件の直後、高野に会わせてもらえるのは異例なことだろうと察しがついた。
「……天木眞希君だったね。」
刑事が、廊下を歩きながら訊いた。
「はい」
結城か勇次が教えたのだろうかと、訝しがる、眞希の顔を刑事がじっと覗き込んだ。
「その火傷は、あの事件のあとだね。」
眞希は目を見開いた。刑事の顔に、見覚えがある気がする。定かな記憶ではないが。
「私を覚えているかい。君を取り調べた刑事だ。もう、ずいぶん前になるが。」
「高尾が、死んだときの」
「そうだ」
そのときのことを思い出しても、もう、かすかに胸の奥がざわつくだけだった。
「君の事はずっと気がかりだったよ。もっと何かしてあげられたんじゃないかと、帰してしまってから、ずいぶん後悔した。」
「……」
「高野とは、どういう……」
彼なりに推測はできているのだろうが、刑事は口ごもった。
「俺の大切な人です。」
躊躇わずに、そんな言葉が出てきた。
「そうか」
刑事はそう言っただけだった。静かな口調であった。
連れて行かれた部屋では、高野が二人の刑事と向かい合っていた。
「坂口さん……」
初老の刑事の名は坂口というらしかった。
「悪いがちょっと、この子と話をさせてやってくれんか?」
そっと肩の辺りを押され、眞希は高野の前に押し出された。
「高野さん」
そこまでおさえてきた不安が表出したように、涙が浮かぶ。
見たところ高野は怪我をしている様子はない。穏やかな落ち着いた様子をしているのを見て、眞希はほっとした。
「眞希。しばらくこっちでお世話になるかもしれない。」
眞希は目を瞠った。家に帰れとでも言われるのではないかと思った。
「結城と勇次に頼んだから。待っててくれるか?」
「はい」
わずかに伸ばした手を、高野がそっと掴んだ。キスくらいしたかったが、刑事たちの前ではそうもいかない。その柔らかく握られた感触を眞希はしっかりと記憶に残した。
待っててくれ、といわれたのが嬉しかった。高野がそう望むのなら、何年でも待てると思った。
坂口の視線が、眞希をとらえて促すのに気づいて、眞希は、高野の手を離した。それから、もう一度高野の顔を見て、部屋をあとにした。
「悪いね。ゆっくり話をさせてやりたいが、取調べの前ではそういうわけにもいかない。」
「いえ、ありがとうございました。あの、高野さんは……」
「私もまだちゃんと話を聞いてはいないからね。また、様子がわかったら教える。だが、あんたは、家族がいるんなら、そっちにもどったほうがいいんじゃないのかい? 結城たちといたら、ろくなことにならないかもしれない。」
話しながら、ちらりちらりと眞希のほうを見ながら、坂口は、やはり綺麗な子だと思った。火傷のあとがあってさえ、そう思えた。
だが、その表情の中には、高校生の頃の脆さが見えない。高野の事件を受け止め、覚悟を決めたらしい、強い意志が表出している。
「いえ、家族のところにもどると、迷惑をかけることになるかもしれないから。結城さんたちと一緒にいます。」
それに、そうしろと高野が言った。
「そうか?」
それ以上、坂口はその話題には触れずに、高野が送検されてから、どう事が進むか、簡単に説明した。眞希にとってもそこが一番聞きたいところであった。
「正当防衛が認められるのは、難しいかもしれない。なにしろ、高野、自ら、乱闘の中に飛び込んだらしいから。銃は、ほかの男が持っていたものを取り上げたらしい。」
ゆっくりと長い廊下を歩きながら、眞希のことが気がかりだったというとおり、刑事は気遣いを見せた。
「高野と一緒に住んでいるんだね。高野の仕事のことは」
「知っています。俺も、縄師です。」
「……そうか。」
どんな嵐が、この青年の上を通り過ぎたのか、高校生のときとは違って、潔い、意思のはっきりした目をしている、と坂口は思った。
勇次たちのいる部屋が見えてきたとき、坂口は一番聞きたかったことを口にした。
「もし、あんなことがなかったら、君は、高野に出会ったり、浜口組と関わることもなかっただろね。」
平凡で幸せな家庭で、良い父親になっていたかもしれない。そんな意味合いをこめて訊いた言葉に、眞希ははっきりと答えた。
「たぶん。でも、俺は後悔はしていません。」
部屋に入っていくと、勇次と結城の事情聴取が終わりかけていた。二人とも、高野は組とは無関係であること、騒ぎを止めるためだけに、乱闘のなかにはいったのだと、繰り返し主張した。
その夜、勇次と結城は、眞希を浜口組の系列のまったく別の組に連れて行った。榊という男が組長をしている。以前、浜口組の舎弟だった男で、勇次と結城にとっては頼れる相手であるらしかった。